パウロは、アグリッパ王の前に立ちました。彼は囚人として鎖につながれています。その場で彼は、驚くべき言葉を口にします。「言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれることは別ですが。」。「私のように。」これは傲慢に聞こえる言葉かもしれません。なぜパウロは、こんなことを言えたのでしょうか。
パウロは、自分の回心体験を語りました。その中で、「私はこの天からの啓示に背かず」とも語ります。彼の人生は復活のキリストに出会った瞬間から方向を変えたのです。かつては、自分の正しさのために生き、律法を守り、神のために働いているつもりでした。しかし主はパウロに新しい使命を与えられました。パウロは、自分の計画ではなく、神の召しに本当に応える人生へと変えられたのです。だから彼は言うのです。「私のようになって」欲しいと。自分の人格を誇っているのではありません。神からの召しに応答した者の姿を示しているのです。
ここで、イザヤ書42章が重なります。でも主の僕について語られます。闇の中にいる人々を光へと導くこと。束縛から解き放つこと。まずはキリストがこの使命を担われました。そしてパウロも、その働きに参与する者とされました。パウロ自身が光に打たれ、目が開かれ、闇から移された。光の証人となったのです。
「私のように」とは、このパウロと同じ能力を持ち、同じ経験をしろ、ということではありません。倣うとは、同じ方向を向くことです。パウロはキリストの方を向いていました。自分の利益や他人からの評価ではなく、主の御心に向いていました。だから彼は、王の前にあっても恐れず、鎖につながれていても、自由だったのです。この場面においても、パウロは鎖につながれています。しかし彼は自由です。一方、王や総督は鎖に繋がれていないにも関わらず不自由な立場にいます。そして彼らは、真理の前で揺らいでいます。本当の自由とはキリストに属することです。そしてパウロはキリストに捕らえられた者として、この自由に生きていました。だからこそ彼は「この鎖を除いては」と「私のように」と言えたのです。
パウロは鎖を軽く見ているのではありません。そして私たちもまた、さまざまな「鎖」に囚われています。他人からの評価への恐れ、過去の失敗の記憶、漠然とした将来への心配、そういったものが見えない鎖として私たちを縛っています。キリストに倣うとは、それらがただちに消えることではありません。それらの中にあってなお、キリストの方を向くことです。パウロも、完璧だったから倣えたのではありません。召しに応答したから、倣うべき姿を示せたのであり、鎖に繋がれながらも自由であったのです。
パウロがそうであったように、私たちもまた、主の御心に応答する者です。パウロやその他の信仰の先達と全く同じようにではないとしても、それぞれが置かれた場所からそれぞれの形で、それぞれを縛る鎖があったとしても、キリストの方を向くことから、私たちも神さまの召しへ応答したいと願います。
中村恵太